ALSは 神経難病の中でも最もよく知られた病気の一つです.脳と脊髄の運動神経が減り,呼吸筋を含めたほぼ全身の筋肉が少しずつ動かなくなっていく病気です.わが国では 毎年,10万人あたり約2人の方が発病され,国内には一万人以上の患者さんがおられます.神経内科医として 多数のALS患者様と関わってきましたし,現在も複数のALS患者様の診療に従事しております.
ALSの症状はほぼ全身に出現しますし,しかも 少しずつ進行します.とりわけ,嚥下障害(食物を飲み込めない)と呼吸筋麻痺(自分の力で呼吸ができなくなる)は命に係わる問題です.現代の日本では保険診療で胃瘻や人工呼吸器を装着し,個々に解決することができます.しかしそれは同時に「声が出ず,手足も動かない状態で何年も生き続けるのか?」という難しい問題と向き合うことでもあります.実際にこれらを自分に装着するかどうかはご自身が判断し,選択されます.
海外の臨床留学中に目の当たりにした事実ですが,日本以外の多くの国ではALS患者さんに人工呼吸器を装着しないことが普通です.これは制度上の問題というよりも宗教上の問題なのかもしれません.結果,殆どのALS患者が発病から2~5年以内に呼吸不全で亡くなります.我が国と異なる景色が広がっています.
いずれにせよ,ALSは緩和医療や安楽死,臨床倫理などのテーマととも語られることの多い病気です.それなのに「ALSと就労」というタイトルとは不思議だな,と思われた方も多いと思います.「ALS 患者が仕事に就き,働くとはどういうことなのか?」と.私も以前ならそう考えたと思います.ALSのYさんとお知り合いになるまでは・・・.
Yさんとの出会い.
2023年,京都市内のある施設にALSの患者さんの新規入居が決まり,訪問主治医をご依頼いただきました.紹介状を見ますと,某大企業にご勤務されていた 元スポーツマンの方でした.働き盛りの40代に 突然,ALSを発症されたとあります.以来,休職して10年近く闘病を続けておられ,直近の4年間は上半身と呼吸筋が完全麻痺の為,胃瘻から栄養を摂り,気管切開して人工呼吸器を装着中との由です.
勝手に『鋼のメンタルをお持ちの方に違いない』と思いこみ,柄にもなく初対面では少し緊張してしまいました.実際にお会いすると,ベッドの上で両下肢を揺さぶりながら,ニッコリ微笑んでくださいました。ホッとした瞬間です.「え,上半身が麻痺しているのに笑えるとはおかしくないか?」とお思いの方もおられることでしょう.はい.顔面の筋肉は麻痺しておられ,痒くても顔を動かせません.しかし,感情を伴ったときには,顔の表情筋が動き,鮮やかな笑顔をお見せになるのです.
Yさんの上半身には もう一つ,自由に動く部分があります.関係者の間では有名な事実ですが,たとえ四肢が麻痺しても、ALSの方は瞼と眼球を自由に動かせるのです.そしてYさんは眼の動きを読み取る『視線入力装置』を駆使し,パソコンを動かす達人だったのです!
我々と同様にメールを読み書きし,ワードやエクセルを操作されます.実際,私がeメールをお送りすると,ものの3分ほどでお返事が来ます.視線入力装置を使うALSの患者さんには何度もお会いしてきましたが,桁外れのスキルでした.本当に驚きました.
そんなある日,ご本人から依頼がありました:『会社の休職期間が間もなく上限に達するので,退職するか,再就労を願い出るかを選択しないといけない.再就労はできないだろうか』と.『ALSと就労』というイシューが私の心に初めて浮かび上がった瞬間です.
時は新型コロナの流行直後。社会にはリモート勤務が定着しつつありました。PCとネット環境があるのなら『メールでのコミュニケーション・ドキュメントの作成と授受、リモート会議への参加で“在宅就労”が可能ではないか?』と視点を変えることにしました.問われているのはALSによる麻痺の程度ではなく、Yさんが会社にとってどれ程、貴重な存在であり、会社にどれ程、貢献できるのか、だと。この観点から会社の人事担当者らと何度も話し合うことにしました.
企業の担当者との交渉内容については個人情報に抵触する可能性があるので、割愛いたしますが,結論から申し上げますと、Yさんは休職期間を終え、ご自身の会社に『常勤』として復職されました。以来,今も元気にリモートで『勤務』を続けておられます.
Yさんが会社にとってかけがいのない存在であったからこそ、復職が叶ったわけですが、そこに至るプロセスには様々の葛藤がありました.何せ『前例』はありませんでした.復職のお手伝いを行うにあたり,我々も古今東西のALSに関する書物を紐解き,ALS患者が就労する意味を学び直しました:学生の時にALSを発症したホーキング博士1),そして, “ピーター2.0” ことピーター・スコット―モーガン氏2) については触れざるを得ないと思います.お二人とも人工呼吸器を装着し,情報機器の力を借りることで社会に貢献するとともに,ALS患者が生きること,就労することの意味を 深く,静かに示されました.結局,私にできたことはこれらの『事例』を咀嚼し,淡々と関係者の皆さんにお伝えすることでした.
『声が出ず,手足も動かない状態で何年も生き続けるのか?』という問いは 30年前と変わらず,今もALS患者さんの前にあります.しかし,脳と機器を接続する“脳=マシーン インターフェイス BMI” が少しずつ実用化され,仮想現実も身近になりつつある今日,ALS患者さんの闘病風景は大きく変貌しています.PCで仕事をされるYさんを見ていると,医療を,そして社会を,現実は軽々と追い越しているように感じます.「ALS患者の就労」が2030年頃には当たり前になっているかもしれませんね.
いつもご教示ありがとうございます,Yさん! 今年も 4月になったら,ご家族とお花見に行きましょう!
1) 「ホーキング、自らを語る」(2014/4/3) スティーヴン・ホーキング (著), 佐藤 勝彦 (監修), 池 央耿 (翻訳) あすなろ書房.
2)「NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来」(2021/6/25) ピーター・スコット-モーガン (著), 藤田 美菜子 (翻訳) 東洋経済新報社.