ALSは 神経難病の中でも最もよく知られた病気の一つです.脳と脊髄の運動神経が減り,呼吸筋を含めたほぼ全身の筋肉が少しずつ動かなくなっていく病気で,わが国では 毎年,10万人中,約2人方が発病され,国内には一万人以上の患者さんがおられます.神経内科医として,私は多数のALS患者様と関わってまいりました.現在もALSの患者様の診療に従事しております.
カナダに臨床留学中に目の当たりにした事実ですが,日本以外の殆どの国ではALS患者さんに人工呼吸器を着けません.結果,海外ではALS患者のほとんどが2~5年で呼吸不全を起こされ,亡くなります.必然的に,安楽死などのテーマとともに話題に上がることの多い病気だといえるでしょう.
それなのに「ALSと就労」というタイトルとは不思議だな,と思われた方も多いと思います.「ALS の患者さんが仕事に就き,働くとはどういうことなのか」と.私も以前ならそう考えたと思います.ALSのYさんとお知り合いになるまでは.
Yさんとの出会い.
ある施設にALSの患者さんの入居が決まり,訪問主治医を依頼されました.紹介状を見ますと,某大企業にご勤務されていた 元スポーツマンの方で,働き盛りの折に 突然,ALSを発症されたとあります.以来,休職して10年近く闘病を続けておられ,直近の4年間は上半身と呼吸筋が完全麻痺,つまり,飲み込みも自発呼吸もできない状態にあり,胃瘻造設され,気管切開/人工呼吸器装着中との由です.
勝手に『鋼のメンタルをお持ちの方に違いない』と思いこみ,柄にもなく初対面では少し緊張してしまいました.実際にお会いすると,ベッドの上で両下肢を揺さぶりながら,ニッコリ微笑んでくださいました。ホッとした瞬間です.「え,上半身が麻痺しているのに笑えるとはおかしくないか?」とお思いの方もおられることでしょう.はい.顔面の筋肉は麻痺しておられ,痒くても顔を動かせません.しかし,感情を伴ったときには,顔の表情筋が動き,鮮やかな笑顔をお見せになるのです.
Yさんの上半身には もう一つ,自由に動く部分があります.関係者の間では有名な事実ですが,たとえ四肢が麻痺しても、ALSの方は瞼と眼球を自由に動かせるのです.そしてYさんは眼の動きを読み取る『視線入力装置』を駆使し,パソコンを動かす達人だったのです! 我々と同様にメールを読み書きし,ワードやエクセルを操作されます.実際,私がeメールをお送りすると,ものの3分ほどでお返事が来ることがありました.視線入力装置を使うALSの患者さんには何度もお会いしてきましたが,桁外れのスキルです.本当に驚きました.
そんなある日,依頼がありました:『会社の休職期間が間もなく上限に達するので,再就労を願い出ることはできないか』と.『ALSと就労』というイシューが私の心に初めて浮かび上がりました.
時は新型コロナの流行直後。社会にはリモート勤務が定着しつつありました。PCとネット環境があるなら『メールでのコミュニケーション・ドキュメントの作成と授受、リモート会議への参加で“就労”が可能ではないか?』と視点を変えることにしました.問われているのはALSによる麻痺の程度ではなく、Yさんが会社にとってどれ程、貴重な存在であり、会社にどれ程、貢献できるのか、だと。この観点から会社の人事担当者と話し合うことになりました.
交渉内容については個人情報に抵触する可能性があるので、割愛いたします。結論から申し上げますと、最終的にYさんは休職期間を終え、ご自身の会社に常勤として復帰。今もリモート勤務を続けておられます.
Yさんが会社にとってかけがいのない存在であったからこそ、復職が叶ったわけですが、そのプロセスでは様々の葛藤があったことも事実です.また我々も古今東西の書物を紐解き、学びなおしました。学生の時にALSを発症したホーキング博士のこと1),そして “ピーター2.0” ことピーター・スコット―モーガン2) については触れざるを得ないと思います.お二人ともALS発症後に活躍することで,ALSと仕事が両立する様を 深く,静かに示されました.そして今,私たちはYさんからリアルタイムで「ALSと就労」のことを学んでいます.ありがとうございます,Yさん.
1) 「ホーキング、自らを語る」(2014/4/3) スティーヴン・ホーキング (著), 佐藤 勝彦 (監修), 池 央耿 (翻訳) あすなろ書房.
2)「NEO HUMAN ネオ・ヒューマン: 究極の自由を得る未来」(2021/6/25) ピーター・スコット-モーガン (著), 藤田 美菜子 (翻訳) 東洋経済新報社.