それは コネクトーム病 ?!
2015年のことでした.私が洋書屋さんを散策しておりますと,光り輝く(ように見える)一冊の本がございました.手に取ると,その表紙には知らない言葉が書かれておりました・・・それが『コネクトーム』との出会いでした 注1 . 2012年に発刊された本であり,私は3年遅れでそれ入手したことになります.読み進めるうちに『あぁ,世の中はこんなに進んでいたのか…』と,強い絶望感に襲われたことを昨日のことのように思い出します.
コネクトーム,とは?!
眠気を誘うような話ですいません.
「ゲノム」という言葉がしばしば,遺伝子関係の報道などで使われます.これは「遺伝子のすべての情報」という意味です.遺伝子=gene ジーン の 全て=ome オーム だから「Genome=ゲノム」 なんですね.そしてゲノムを研究する学問をゲノミクスといいます.
遺伝子=ジーン は タンパク質の設計図であり,同時にタンパク質の調整機構です.ヒトには約2万個あり,この設計図を読んだり,読まなかったり,読み方を変えることで,それぞれの細胞が作るタンパク質を調節します.その結果,我々は この世に生まれ,成長し,活動して,子孫を残し,死んでいきます.生きることと死ぬことはタンパク質の活動の賜物と言えます.そして,このタンパク質=protein プロテイン の 全て=ome オーム を「Proteome=プロテオーム」と呼び,その学問をプロテオミクスといいます.
あれ? ということは「コネクトーム」とは 何かの配線=connect の 全て=ome オーム,「Connectome=コネクトーム」ということなのでしょうか? はい,そうらしいです.「神経の全配線」のことをコネクトームといい,これを解析する学問が Connectomics=コネクトミクスなのです.
コネクトーム研究の始まり.
1989年に C. eleganceという実験動物(長さ1㎜ぐらいの線形動物.ミミズのご先祖さんみたいな生き物です)が持つ302個の神経細胞の全配線が解明されました 注2.これがコネクトーム研究の嚆矢とされています.
ヒトの場合,コネクトームを調べることは C. eleganceほど簡単ではありません.何せ,脳だけで約1,500億個の神経が詰まっています.そして,それぞれの神経は,何と,数千から1万個の神経とつながっているそうです! 神経が302個しかないC.eleganceのコネクトーム解析でも15年以上が必要で,より詳しい解析には2019年までかかったとされています.ヒトの全てのコネクトーム解析には,たとえ量子コンピューターを使っても何十年もかかるかもしれないですね.もしも完遂されれば ヒトゲノム解析など,霞んで見えるほどの大事業になることでしょう.
そもそも,脳の神経はどのようにして 配線されるのか?
私が大学院の時にお世話になった 京都府立医科大学 神経生理学教室(外山研)では「脳が形作られる時,いつ,どの神経と どの神経がつながるのかは,部位ごとに予め決まっている」ことを神経組織の培養研究で実証されました 注3.神経は自分が繋がるべき神経を“探し”,自ら繋がり,正しくない接続を排除することで超複雑なコネクトームを作り上げているらしいのです.
もしもこの「神経の配線」がうまく設定されなければ,それは,それは困ったことになるでしょう.例えば,眼球から脳に向かう神経は,左右の大脳半球に「正しく」分配され,接続されることで,我々はこの世界の形を正しく捉えることができます.もしも接続が間違っていれば,左右の脳が見る映像が違って見え,脳は大混乱することになります.
「脳の配線の異常」= コネクトパチー
こうした「神経の配線」に大規模な異常を生じるような病気ならば,脳の形が大きく変わりますので,今日では簡単に病気を診断できることでしょう.例えば,大きな脳出血や脳梗塞を生じますと,脳が破壊され,多数の「神経の配線」が破綻します.重要な「配線」が失われれば,「麻痺」や「意識障害」が引き起こされ,その方は病院へ搬送されることになります.救急搬送先で脳のCTやMRIを撮れば,脳の中の「出血」や「梗塞」が画像として映し出され,脳の病気である「脳卒中」と診断されます.日々,あちこちのSCUやERで起こっていることです.
もしも,この「神経の配線」の破綻がごく僅かなものであれば,脳の形はほとんど変わらず,CTやMRIを使ってもその変化に気づくことは難しくなるかもしれません.例としてパーキンソン病を挙げてみましょう.
この病気では,脳の中の「黒質」という小領域の,さらにその約半分を占める『黒質緻密部』にある「ドパミンを使う神経」だけが失われるのですが,その結果,全身がスムーズに動かなくなっていきます.症状は実に深刻ですが,脳全体から見ればごく僅かの神経が失われるだけです.当然のことながら,CTやMRIで見ても脳はほぼ正常に見えます (脳の神経の総数は1,500億個.これに対し,黒質にあるドパミン作動性神経の数は 左右合わせて80万個程度だといわれています.たとえ全細胞が失われたとしても,脳全体からみれば,僅か0.0005%でしかないのです...)注4.
幸い,特別な訓練を受けた神経内科医ならば,患者さんの症状などから容易にパーキンソン病を診断することができます.しかし,客観的に「神経配線の異常」を証明するとなると,「SPECT」という高価で特殊な検査が必要になります.これは「神経の先端にあるドパミン」を映し出す画像検査です.パーキンソン病の患者さんの脳では すでに発病時点で「黒質緻密部 発 → 線条体 行き ドパミン作動性神経」の8割以上が失われていると言われており,本来ならば,その終着点である線条体に豊富に含まれるはずのドパミンが,ごっそりと減っている様子を映像で確認できます.
黒質と線条体を結ぶ神経が失われることで発症するパーキンソン病は,特定の「神経の配線」=コネクトの異常による病気,すなわち コネクトパチーと呼ぶことができるでしょう.
コネクトームの研究がもたらすもの.
今日,多くの困難にもかかわらず,コネクトームの異常が様々な病気に関係することが少しずつ解明されてきました.そして,それは,MRI等で「脳の形態変化が明らか」である神経内科の領域よりも,「脳の形に異常がない」はずの精神科領域に,より強いインパクトを与えているようです.
過去,精神疾患はまさに「心の病気」であり,脳の形は変わらないものとされてきました.しかし,いくつかの疾患では「脳のおおまかな形」はそのままに,その中に含まれる「神経の配線」に異常をきたしていることが分かってきたのです:
・統合失調症: 聴覚野と大脳の深部(淡蒼球)との過剰な接続・前頭葉の接続低下.
・自閉スペクトラム症(ASD): 神経の配線が 近距離で過剰となり,遠距離で減少.
・双極性障害: 大脳のコネクトームの脆弱化(特に視床傍室核の神経脱落).
・ADHD 注意欠如・多動症: 一部のコネクトームが低下 . 等々… 精神科疾患の過半が含まれることになりますね.
私たちは どう考えればいいのでしょうか...
コネクトームの異常がそれぞれの病気の「原因」なのか,「結果」なのかについては議論の余地があるでしょう.また,これらの病気を「ほんの少しなんだけれども,確かに,脳の構造が変化する病気」と決めつけ,それを理由にこれらを「神経内科」の範疇に無理やり組み入れようとするのは 時期尚早です.まずは事実を積み重ね,医学を超えた 社会や時代の批判を経る必要があるでしょう.
しかし,進歩著しい遺伝子研究の成果や,次々に指摘されてきたコネクトーム異常を考えますと,少なくとも精神疾患のうちの 少なからぬ数の疾患や症候群が「従来は突き止めることの難しかった,超微細な形態的・機能的異常が関係する脳の病気」である可能性は否定できないように私には思えます.そうなれば,今後,その余波として,精神疾患の診断や治療が大きく変化していくかもしれませんね.そして,それは 過去10年,私が神経内科から精神科へと業務と関心の対象を拡大してきた理由でもあります.
医学生の頃,「精神科医になるには,フッサールの現象学やデリダらの実存主義を学ばないといけないのかな・・・」などと漠然と考えておりましたし,とりあえず,木村 敏先生の本を読んでは『それはノエシスなのか,それともノエマか?』と自問したものです.しかし,これからはコネクトミクスも勉強しないといけない時代になりそうです.
ここにきて,元京大教授の亀山正邦先生が仰った「これからの神経研究はサブミクロとサブマクロだよ.」というお言葉がしみじみと思い出されます.サブミクロをゲノミクスとプロテオミクスに,そしてサブマクロをコネクトミクスと読み替えますと,21世紀以降の神経科学を俯瞰する,完璧な予言だったのではないか,と改めて感銘を受ける今日この頃です.
最後に.
以上の文章は最近の神経科学の成果の一部を私が個人的な興味から編集したものであり,精神医学に関する 現代の普遍的な考え方ではありません! 「ほう,そういう見方もあるのだな」,あるいは,「この院長はいろいろ悩んでいるんだね」,とご解釈いただけますと幸いです.
注1 "Discovering the Human Connectome." Sporns O. MIT Press 2012.
この本とは別に, 韓国が生んだ天才,セバスチャン スン先生の書いた 啓蒙書,「コネク
トーム」の日本語訳が草思社から出版されています.
注2 White JG et al. Phil. Trans. R. Soc. Lond. B 1986;314:1-340.
注3 Yamamoto N, et al. Journal of Neuroscience. 1989;9:3560-3579.
注4 当時,最先端であった拡散テンソルという撮像法を使い,パーキンソン病患者さんの
脳のわずかな変化を世界で初めてMRIで捉えたのがYoshikawa 院長です(JNNP 2004).
独逸のグループ等から執拗な批判を受けましたが,Oxford大が2013年のNeurology誌の
システマティックレビューで「この分野の科学的な報告をYoshikawaが最初に行った」
と認定くださり,引き続きメタアナリシスでは私が主張したように「拡散テンソルは
パーキンソン病診断に寄与する」と結論づけられ,10年近くの論争に終止符が打たれま
した.嬉しいことに同分野のパイオニアとして今も世界中で私の文献が引用されてます.
ちなみに拡散テンソルはヒトのコネクトームを評価する手法(Fiber Tracking)として,
今も大活躍していますよ.
*大きく変わりゆく 精神科領域をわかりやすく解説した本をご紹介しましょう:おなじみ,
講談社Blue Backsシリーズ『「心の病」の脳科学』と『「心の不調」の脳科学』が白眉です.
